こんにちは、画家の落合真由美です。
今回はエドゥアール・マネについての
お話です。
マネは《草上の昼食》や
《オランピア》などの作品を残しました。
センセーショナルな表現で美術界に革命を
起こし、絵画の歴史を変えたとも言われる
画家です。マネの作品には一見しただけでは
わからない意図が隠れていて、描かれた背景
を知ると「そうだったんだ」と妙に納得
できます。
とても描写力が高い画家なのですが、
何で描かれているモデルは虚ろな表情
なんだろう?
何でいきなり裸の女性が登場するんだろう?
何で平面的に描かれている作品が
後世でこんなに評価されているのだろう?
とマネのことを知る前はわたしはいろいろと
疑問を持っていました。
マネが描きたかったものとは何か?
やりたかったこととは何か?
美術史の流れを知る中では欠かせない存在
である画家マネの生涯とその革新性について
分かりやすく解説していきます。
エドゥアール・マネ年表

エドゥアール・マネ1832-1883
マネは伝統的な絵画のセオリーを壊し、
批判を浴びながらリアルな社会や人物像を
描こうとした画家です。
近代化していくパリの情景を独自の視点で
表現し印象派の先駆者となりました。
そんなマネの生涯を分かりやすく解説
していきます。
1832年
マネはパリの裕福な家庭に生まれ幼少期から
美術に強い関心を持っていました。
1845年13歳頃
デッサン教室に通うようになりますが
父親には快く思われませんでした。
1850年頃
父親の反対を押し切り画家を志すことを決意
し、歴史画家トマ・クチュールに師事します。
ルーブル美術館でこの時代の巨匠たちの作品
を模写することで描写力を鍛えていきました。
マネはヨーロッパ各地の画家の作品に影響を
受けましたが、特にスペインのベラスケス、
ゴヤに興味を持ちます。
模写によって描写力をつけていったマネは
徐々に独自の絵画を目指します。
1859年頃から
サロンへの出品を目指すようになります。
1861年《スペインの歌手》が初入選したこと
で初めて評価を受けます。
マネはギュスターヴ・クールベをはじめと
する写実主義に通じる思想も持っていました。
写実主義とは19世紀半ばにフランスで
起こった美術運動です。
新古典主義やロマン主義のように神話や歴史
など理想的な美しさを表現するのではなく
農民や労働者などの日常をテーマに取り上げ、
社会の不平等さや貧困などありのままの現実
に客観的に向き合った美術運動です。
理想化された人物像や神話の世界を描くのが
アカデミックだった時代の中でマネは
リアルな実生活や人々の暮らしをありのまま
に描こうとしました。
1880年頃
かつて若い頃に感染したと思われる梅毒に
よる症状に苦しむようになります。
1881年
幼少のころからの親友が美術大臣に任命され、
親友の働きかけによりレジオンドヌール勲章
を受章し、国家から正式に認められます。
1882年
梅毒による神経症状に苦しみながら大作
《フォリー・ベルジェールのバー》を
描きます。
1883年
梅毒の症状が悪化し左足が壊疽したことで
切断を余儀なくされます。
同年51歳で逝去しました。
マネの死後、革新的な作品への評価が
見直され、近代絵画の先駆者として
後世の画家たちに大きな影響を与えました。
浮世絵に影響を受けたマネ

マネは日本の浮世絵からも影響を受けた画家
の一人です。
1860年頃パリでジャポニズムが起こり
日本の浮世絵ブームが到来します。
マネの作品の特徴ともいえる
平面的な色彩構成、ミニマルな構図、
明るく大胆な色使い、荒いストローク、
日常の場面を切り取った主題の設定は
浮世絵の特徴と類似します。
エドゥアール・マネの作風とは?

マネが徐々に自身の画風を確立していくなか、
ある日のトマ・クチュールのアトリエで
「私が見たものを作るので、他人が見て喜ぶ
ものを作るのではありません。
そうであるものを作るのであり、
そうでないものは作りません」
と反発しました。
伝統は否定せずに新たな価値を見出したいと
考えていたのです。
マネが確立した奥行きや立体感を重視せず
フラットな色面構成と大胆な色使い、
輪郭線を明らかにせず、色面のコントラスト
で形や空間を表現する新しい描き方は革新的
で後世の画家たちに影響を与えました。
マネが扱うテーマはカフェ、バー、労働者や
余暇を楽しむ街中の人々でした。
19世紀のパリの日常をありのままに描こうと
人物の表情にも注目しました。登場人物は
理想的にほほ笑むのではなく、人物の退屈な
表情やうつろな表情も隠さずそのまま
描きました。
扱うテーマや人物の捉え方は当時、
理想とする美しいものを描いてきた美術界の
潮流からするとタブーなことでした。
このように伝統から逸脱するような表現が
目につき批評家やアカデミーから顰蹙を買う
ようになります。
《草上の昼食》1862-1863年
裸婦が衣服を身につけた男性とたたずむ姿を
描いた作品です。
日常風景に裸婦を登場させた場面を描き
大きなスキャンダルとなります。
これまでは女性のヌードを描く場合は神話に
基づいた女神のヌードのみ許されていました。
しかし日常の女性のヌードをリアルに描いて
しまったことが世間を大きく騒がせました。
マネは虚飾を取り払ってありのままの社会や
人物像を表現しようとしたのです。
《オランピア》1863年
オランピアはサロンへの入選は果たしました
がこちらも世間を大きく騒がせました。
ここで登場する裸婦も神話に出てくる女神
などではなく現実に存在する娼婦を思わせる
女性像です。写実主義にも通じるマネの表現
は近代美術の発展に大きく影響を
及ぼしました。
《鉄道》1873年
サン・ラザール駅を取り上げ、近代化した
パリの姿が描かれています。作品には読書を
する母と柵に手をかけて駅の様子を見つめる
娘が登場します。並んで正面を向いて微笑む
母子像ではなく母子のリアルな一場面を
そのまま描いています。
マネが印象派に与えた影響

マネの革新的な表現は印象派の画家たちにも
影響を及ぼします。
特に影響を受けた印象派の画家は
クロード・モネとオーギュスト・ルノワール
です。
クロード・モネ1840-1926年

マネの野外での明るい光を取り入れた表現や
日常風景をモチーフにした表現に
影響されました。モネは生涯、刻々と変化
する光の効果を追求した印象派を代表する
画家です。
オーギュスト・ルノワール1841-1919年

マネの色彩感覚や、日常風景をモチーフに
していることに強く影響を受けました。
ルノワールは人々の幸福な日常の瞬間を
巧みに表現したパリの風俗画や女性人物画を
数多く残しました。
印象派のグループも当時は革新的で批判を
受ける中で徐々に世間からの評価を上げて
いきました。
マネは印象派のグルーブには加わらず、
あくまでサロンで評価してもらうことに
こだわり続けた画家です。
当時のフランスの美術界はサロン・ド・パリ
に入選しなければ画家として生計を立てられ
ない風潮だったからです。
しかし1881年、
サロン・ド・パリは民間のサロンとして
運営されることになり
大作《フォリー・ベルジェールのバー》
を出品するも梅毒による左足の壊疽が進行し
この作品が最後のサロン出品となります。
描写力もあり独創性もある画家でしたが、
思想や表現が革新的すぎたゆえ、高い評価を
思うように得られないまま短い生涯を
終えました。
まとめ

マネは写実主義の思想を持ちながら
独自の視点と画法を追求し後の印象派にも
影響を与えました。
マネは写実主義と印象派の橋渡し的な存在
だったともいえます。
伝統を継承しながらいろいろな思想や視点を
取り入れて自分のものにしていったマネ。
芸術は無限の可能性があるのだと改めて
感じます。















